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落合博満伝説よ再び!落合博満の残した伝説の数々を振り返る

落合博満

この記事では、落合博満さんの伝説的なエピソードについてお伝えしています。

現役時代は3度の3冠王に輝き、監督時代も4度のリーグ優勝を達成する等、落合博満さんの成績は伝説と言えるでしょう。

・・・しかし、彼の残した伝説は数字のみならず。

偉大な記録を打ち立ててきた落合博満さんですが、今回は数字だけでは見えてこない伝説をに迫ってみました。

 

この記事をお読み頂くことで、

・落合博満伝説のはじまりはこれ?

・伝説の大投手を相手に!?

・ひとつの伝説を逃した出来事

等について知ることができます。

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落合博満、伝説のはじまり

落合博満伝説のはじまり…それは彼が初めてオールスターに出場した1981だったと私は思います。

1981年のオールスター第二戦、落合博満さんは初の4番バッターとして試合に出場。

当時監督を勤めた西本幸雄さんが、落合博満さんを4番に抜擢した理由、それは・・・。

『未来の球界を背負って立つバッターだから』

そういう見立てのもと、当時さほど有名でなかった落合博満さんを4番にしました。

西本幸雄さんの眼力が確かだったことは、落合博満さんの実績を見る限り正しかったと言えますね。

 

1981年の落合博満を見てみると『プロ入り3年目、前年まで規定打席に未到達』という、まだまだこれからという選手でした。
1981年、初出場となったオールスターをについて、落合博満さん自身も『自分が世に出た試合』と話していました。
同年のシーズンに、落合博満さんは初の規定打席に到達し、なんと首位打者にも輝く大活躍!
落合博満さん自身が『世に出た』という表現そのままに、ここから落合博満伝説がはじまった…そう言えるのではないでしょうか?
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落合博満、伝説を相手に臆せず!

そんな噂の元となったのは、名球会が関わっています。

 

多くのプロ野球選手にとって憧れであろう『名球会入り』。

名球会への入会資格は以下の通り、非常にハイレベルで困難なものとなっています。

・NPBの選手または元選手

・昭和生まれ以降

・日米通算(NPB、MLBの合算)で以下のいずれかを達成、ただし、NPBでの記録をスタート地点とする。
→通算200勝利以上
→通算250セーブ以上
→通算2000安打以上

※2017年記述時点

打者であれ、投手であれ、名球会入りの資格を達成するのは、並大抵のことではないとお分かりいただけたかと思います。

多くのプロ野球選手が目標とする名球会入り。

落合博満さんは、その資格を1995年4月15日の阪神戦(東京ドーム)で達成しました。

 

・・・ところが、落合博満さんは、記者会見で『俺流』の答えを発します。

 

名球会を拒否

 

えー!なんで!?

多くのファンはそう思ったでしょう。

その理由は、前述した金田正一さんに関係していました。

→関連記事: 落合博満の年俸推移を調査した結果…やっぱ凄いわこの人!

落合博満さんがプロ入りした当初、彼の打撃フォームは多くの評論家に避難されていました。

その中でも特に辛口だったのが金田正一さん。

面と向かって『プロでは通用しない』といった具合に言われたようです。

金田正一さんは、名球会を取り仕切っている立場の人物でした。

であれば・・・落合博満さんが出した『名球会入りを拒否』は、まあ分からないことでもありません。

 

しかしこの話の真意は別にあります。

落合博満さんは『自身の打撃フォームを否定された』ことよりも、『名球会はそのような人物が取り仕切っている』ことに強い疑念を抱いていたのです。

その為、誰もが憧れる『名球会入り』を拒否したんですね。

伝説の大投手・金田正一の存在を前にしても『俺流』を貫いた男、それが落合博満さんでした。

 

あとがき:話を少し戻しますが、通算2000本目のヒットは、大きな大きなホームランでした!

因みにですが、落合博満さんは500本、1000本、1500本安打という節目をホームランで飾っています。

2000本安打を放つ前、6打席連続凡退していたことを考えると・・・節目ではホームランを狙っていたのかもしれませんね。

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落合博満、伝説をひとつ逃した!?

数多くの伝説を残した落合博満さんですが、『あること』によって、ひとつの伝説を逃してしまいました。

逃してしまった伝説とは『王貞治さんのシーズン55本塁打』という偉大な記録の更新です。

 

話は落合博満の全盛期とも言える1986年に遡ります。

残り7試合でシーズン終了というときのエピソードです。

これまで50本のホームランを記録しており、王貞治さんの『55本』を更新する可能性もある状態でした。

しかし、落合博満さんは残り試合を欠場することに。

その理由は、当時監督だった稲尾和久さんからの『若手にチャンスを』という願いを聞き入れてのことでした。

 

稲尾監督のお願いに納得し、落合博満さんの1986年シーズンは終了。

落合博満さんの全盛期ともいえる同年、もし全試合出場してホームランを狙っていたとしたら・・・。

シーズン55本という大記録は、バレンティンの遥か前に更新されていたかもしれません。

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落合博満伝説よ再び!落合博満の残した伝説の数々を振り返る:まとめ

・落合博満さんが世に出たのは、初のオールスターとなった1981年。ここから伝説がはじまった。

・名球会入りを拒否した理由は、組織のあり方に疑問を持っていたからと考えられる。

・シーズンを途中欠場しなければ、55本の記録に届いていた可能性も。

以上の内容でお送り致しました。

 

監督と退任し、落合博満伝説は一旦終わりました。

・・・ですが、ファンとしては伝説の続きを期待してしまいます!

近い将来、また監督復帰していただきたい…そして新たな『落合博満伝説』の幕開けをお願いしたいです!

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