清原和博さんは、甲子園での実績をひっさげてプロ野球界に鳴り物入りで入団した、はじめからスター選手でした。

プロ野球では「番長」と言われ、その驚異の長打力とチャンスに強いメンタルで活躍します。

そのスター選手の現役時代の年棒推移は、どのようなものだったのでしょうか?

各球団に所属していた時代を振り返りながら、清原和博さんの年棒推移をご紹介していきたいと思います。

 

この記事をお読み頂くことで、

・稼ぎまくりだった、西武~ジャイアンツ時代の清原和博さんの年俸推移

・晩年のオリックス時代は・・・。

・あれだけ稼いだ年俸は一体・・・。

 

等について知ることができます。

野球犬

ぜひ最後までお付き合い下さい!

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稼ぎに稼いだ!清原和博の年俸推移(西武~巨人時代)

清原和博選手は19歳で西武に入団します。

初年度の年棒600万円です。

新人王を獲得するほどの大活躍を見せたルーキーイヤー。

初年度とはいえ、西武は安い買い物をしたと言えるでしょう。

2年目約4倍の2200万円で契約します。

西武の4番として躍進し続ける清原選手の活躍に比例して、順調に年棒推移していきます。

6年目、24歳の時には1億円に到達

当時、これは史上初の快挙であり、最年少で1億円プレイヤーになったということです。

あの落合博満選手が年棒1億円になったのが、1987年、34歳のときですから、清原選手がいかにスピード出世したかが分かりますね。

そして西部での最高年棒は、10年目、28歳のときの2億5000万円です。

 

西武での恵まれた環境からの脱却も考え始めた清原和博選手は、FAを取得し、憧れの巨人に移籍します。

巨人入団の最初の年、1997年の年棒は3億6000万円です。

この金額は、もちろん西武での実績が評価されたものと考えていいでしょう。

長嶋監督のもと、1年目から4番打者を任され、さらに活躍をつづけていきます。

 

 

しかし、このころから清原和博選手は怪我との戦いが始まります。

左太腿肉離れ、死球による左手亀裂骨折、右足靭帯負傷、そして特に左膝の故障が、終始清原選手を悩ますことになります。

それでも、5年契約最後の2001年、巨人に入団してから最高の成績を記録して、4年の契約継続と、最高年棒、4億5000万円を獲得します

清原選手の、ここぞというところでの勝負強さが垣間見れますね。

 

その後は怪我による成績の伸び悩みと、巨人フロントとの確執から、2005年に戦力外通知をうけることになってしまいます。

結局、清原和博選手の西武、巨人時代の年棒の総額は、44億7300万円になります。

ひとりの人間が稼ぎ出した金額としてはすごい額ですが、プロ野球界のスター選手、清原和博さんならこのくらいは稼げるということですね。

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晩年の清原和博の年俸推移(オリックス時代)

巨人から戦力外通知をうけた清原和博選手にオファーを出したのは、地元大阪に本拠地を置く、オリックス・バファローズでした。

仰木彬さんからの度重なる説得によって、オリックスに入団することになります。

 

オリックスに移ってからの年棒推移を見ていきましょう。

入団時の年棒は、2億5000万円

巨人時代に比べれば金額は下がりましたが、それでも高額の待遇です。

「最後の花道を飾る」ために、清原選手はなんとか奮起しようともがき続けます。

しかし、長年の下半身の怪我によって思うような活躍もできず、2007年は手術とリハビリで終わることになります。

2008年、最後の意気込みを見せて1億5000万で契約更新しましたが、やはり怪我の影響で成績が振るわず、引退を決意することになりました。

 

オリックスで得た年棒は、3年間で6億5000万円

この金額が多いか少ないかは難しいところです。

清原和博さんの野球に対する思い、プロ選手としての意識、プライド、そして声をかけてくれた仰木彬さんに恩返しをしたいという想いなど、複雑な感情が入り混じった数字になっているのです。

西武時代は野球をやっていれば成績がついてきて幸せだった時代だったととらえれば、オリックス時代の清原和博さんはプロとして何ができるのかを見つけ出すための成熟の時代だったと言えます。

オリックスという、最後を飾る場所を得られたことで、自分を見つめなおすことができた清原和博さん。

そんな人間ドラマに思いを馳せるのも、プロ野球ファンの楽しみというものだと思います。

 

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