読売巨人とダイエー、ソフトバンクの監督を務めた王貞治監督

監督としても一流の実績を残したプロ野球のレジェンドには、いろいろな監督時代のエピソードがあります。

王貞治監督の飾らない人柄や野球にかける情熱について、紹介していきたいと思います。

 

この記事をお読み頂くことで、

・なぜ巨人軍の英雄は、ホークスの監督就任したのか?

・長きに渡り指導を仰いだ選手が語る、王貞治監督のエピソード

・元MLB選手からも尊敬されるエピソード

 

等について知ることができます。

野球犬

ぜひ最後までお付き合い下さい!

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ホークス・王貞治監督誕生の真相

1984年から1988年まで巨人の監督を務め、辞任後はNHKの野球解説者をしていた王貞治さん。

生まれ育った東京から離れる理由はなかったはずですが、1994年にホークス監督に就任して九州の地を踏みます。

王貞治さんが巨人の監督を辞めた後、なぜホークスの監督を引き受けたのでしょうか?

そこには3つの理由がありました。

 

ひとつは、球団の本拠地が九州だったからです。

巨人監督辞任後、他のいくつかの球団から監督就任の打診がありました。

しかし、王貞治さんは、この話を断っています。

巨人の監督を経験した身として、競合する東京近郊の球団や、セ・リーグの監督を受けにくかったのです。

その点、パ・リーグで九州をホームグランドとするホークスならば、受けやすかったということが挙げられます。

 

ふたつめの理由としては、熱心な説得者がいたことです。

1988年にホークスの監督となった根本睦夫さんは、就任当初から「ワンちゃん(王貞治さん)をホークスの監督に」と考えていたようです。

Bクラスに定着し、なかなか結果を出せない球団を引き上げるためには、王貞治さんの力が必要だと、はじめから構想していました。

根本監督は、熱心に王貞治さんを口説きます

その熱意は、王監督に再び野球のユニホームを着させることに結実することになります。

 

3つめ目は、王貞治さんの心境の変化です。

王貞治さんが巨人の監督を辞めて5年が経ち、その心の中にはまた野球をやりたいという心境が生まれていました。

世界少年野球財団の理事長として忙しい身ではありましたが、やはり野球人としての現場復帰の意思がふつふつと湧いてきていたのです。

根本監督の説得に乗る形で、1994年、王貞治さんはホークスの監督を引き受けることに決断しました。

 

これらの理由が重なり合って、ホークス王監督が誕生したのです

周囲の100人が100人とも反対するというような決断でしたが、後の結果を見れば、この決断がいかに素晴らしかったかが分かると思います

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王貞治監督の教え子は語る

王貞治さんがホークス監督を務めていた14年間、一緒に過ごした選手がいます。

それが、本間満内野手です。

王貞治監督が就任した1994年のドラフト3位で指名され、入団しています。

王監督からすれば、教え子といってもいいでしょう。

本間選手の回想から、王貞治さんのいろいろなエピソードを拾うことができます。

 

巨人の監督を務めていた時代、本間さんは東京の神宮球場向かいの高校に通っていました。

王監督が門前を通りかかるのを見かけるたびに「がんばって!」と声をかけると、王監督はそのたびに笑って「おうよ」と答えてくれたそうです。

また、サインをねだると断ることはなかったそうです。

そこまでファンサービスが徹底しているのは、王貞治さんの誠実な人柄によるものではないでしょうか。

 

本間選手がルーキー時代には、王監督ははじめは怖いという感じだったそうです。

グラウンドや練習場では自他ともに厳しく、高い水準求めてつねに努力を促します。

なかなか試合で結果がでないプレッシャーもありましたが、やはりホークスに強くなってもらいたいという一心から出た強い意志だったのです。

 

1996年には、不甲斐ない試合に怒ったファンが球団のバスに生卵を投げつけるという事件がおこっています。

これに対し、王監督は「これがファンの意見ならば、勝つことで応えるしかない」とコメントしました。

言い訳せず、結果を残すことでファンに応えるという王監督の苦労と意思が思われるエピソードですね。

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