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王貞治を背番号1に相応しい選手に育てたのは…

王貞治選手を、ホームラン王に育て上げたのは、荒川博打撃コーチです。

王選手の母校である早稲田実業の先輩で、毎日オリオンズの選手でした。

 

実はこの二人は、王貞治さんが中学生のときに、偶然に出会ったというのです!

墨田区のアマチュアチームに交じって野球の試合をしていた王貞治さんを、たまたま通りかかった荒川選手が見つけます。

王選手が、左投げなのに右打席で打っているのを不思議に思った荒川さんは、左で打つようにアドバイスしたそうです。

また、荒川選手は、自分の母校である早稲田実業に進学するよう、王選手に勧めています。

この出会いがプロ野球の選手になることの転機となったと、後年、王貞治さんは回想しています。

 

オリオンズを退団した荒川選手は、川上監督からの打診を受け、1962年に巨人の一軍打撃コーチに就任します。

今度はコーチと選手として、二人は久しぶりに再会することになりました。

王選手の打撃練習を見た荒川コーチは、バッティングフォームの改造を決心します。

3年間夜遊びを禁止させ、王選手と荒川コーチは、二人三脚で猛烈な練習をこなすようになります

毎日、素振りをしたことによって、王選手が足を着いたところだけ畳がすり減ってしまったというエピソードは有名です。

また、あまりに真剣な練習を見たチームメイトが、「命がけの練習だ」とコメントするほどでした。

 

その甲斐あって、「一本足打法」を編み出した王選手は、1962年のシーズンでは38本の本塁打を打ち、長距離打者としての道を歩み始めたのです。

1964年にはシーズン55本ホームランを達成、そして1977年にはハンク・アーロン選手が持つメジャーリーグ本塁打記録755本を抜き去ります。

その後引退するまで、868本のホームラン世界記録を打ち立てました。

 

王貞治さんのホームラン世界記録達成は、もちろん自身の努力につぐ努力の成果です。

しかし、荒川コーチという恩人との出会いがあったからこそ、「世界の王」と呼ばれるまでの存在になれたとも言えます。

努力する人には運命も味方するというのは、本当なんですね!

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王貞治の背番号だった『1』について調査してみた。:まとめ

・王貞治選手の背番号『1』は、巨人の永久欠番として、永く称えられる番号となった。

・王貞治選手が入団してからの3年間は低迷し、背番号『1』に期待された活躍はできなかった。

・荒川博コーチとの出会いと、猛練習の結果、打者としての素質が花開きホームラン王への道を歩み始めた。

 

以上の内容でお送り致しました。

 

背番号『1』と王貞治さんは、切っても切れないものとなっています。

長嶋選手の『3』と同じくらい、これだけ世間一般に浸透した背番号は、他にはないのかもしれません。

スーパーヒーローとしてのプロ野球選手が、いかに影響力を持っているかが分かりますよね!

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