王貞治さんといえば、背番号『1』ですよね!

同じ背番号を持つプロ野球選手がたくさんいるなかで、いまだに『1』=王貞治さんなのは、世界のホームラン王としての活躍があったからこそなのです。

王選手が、どのように背番号『1』にふさわしいヒーローとなっていったのかを紹介したいと思います。

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王貞治の背番号は

巨人のV9黄金時代を支えた王貞治選手と長嶋茂雄選手。

二人の背番号『1』と『3』は、長い間、みんなのあこがれでした

この二人の背番号は、巨人の永久欠番となっています。

 

巨人の主な永久欠番は以下のとおりです。

1 王
3 長嶋
14 沢村
16 川上
34 金田

 

どの選手も、一時代を築いた、すばらしい選手ばかりです。

特に、王貞治さんは、選手時代と巨人の監督時代も一貫して『1』をつけていましたので、記憶に残っている方も多いと思います。

そのイメージもあってか、プロ野球で背番号1といえば、強打者や内野手に与えられることが多いそうです。

世界ホームラン記録保持者の影響力は、さすがと言うべきでしょうね!

 

入団時に、王選手に背番号1がつけられた理由については、いくつか説があります。

中国語で「王」を「ワン」と発音することが由来ではないかと言われていますが、それだけが理由ではないでしょう。

高卒ルーキーで、一桁代、しかも『1』をつけるということは、フロントからも相当期待されていた証だったと思われます。

後年、世界記録を残す選手になったことを思えば、先見の明があったといえるでしょう。

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監督時代にも背番号を変えなかった王監督は、当時こんな意味のコメントをのこしています。

「もし自分が背番号1以外をつけることになったら、ほかにつける人はいなくなるだろう。巨人は選手やコーチも多いので背番号が足りなくなる」

謙虚さのなかにも、貫禄を感じさせるコメントですよね。

実際、背番号1は永久欠番として永く称えられるものとなったのです。

 

ちなみに、福岡ホークスの監督時代には、王貞治さんの背番号は『89』です。

『89』を選んだのは、「野球」や「破竹の勢い」にかけたからともいわれています。

これも、監督として、新天地で勝負をかける熱意が感じられるエピソードと言えるでしょう。

 

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背番号1を背負った王貞治だったが…

王貞治選手は、入団してからの3年間は低迷が続きます

2年目はの1960年には、ホームラン17本、打率2割7分の成績を残しましたが、3年目はホームラン13本と伸び悩んでいます。

高卒ルーキーとしてはそこそこの成績です。

しかし、巨人の背番号1を背負い、チームの打撃力を引き上げる選手になるという大きな期待には、応えられないままでいました。

川上監督は、そんな王選手の打者としての素質を見抜いていた一人です。

王選手がもっと真剣に野球に取り組むようになるなら、打率3割は打てる、と考えていたそうです。

というのも、当時、まだ若かった王選手は夜遊び好きで、練習のあとはよく街に繰り出してました。

ストイックなイメージがある王選手ですが、まだ二十歳前後の若者であれば、遊びに行きたくなるのは当然ですよね。

 

川上監督は考えた末に、一人の打撃コーチを巨人に招聘することにしました。

このコーチとの出会いこそ、王選手の長距離打者としての才能を開花させたのです。

 

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王貞治を背番号1に相応しい選手に育てたのは…

 

王貞治選手を、ホームラン王に育て上げたのは、荒川博打撃コーチです。

王選手の母校である早稲田実業の先輩で、毎日オリオンズの選手でした。

 

実はこの二人は、王貞治さんが中学生のときに、偶然に出会ったというのです!

墨田区のアマチュアチームに交じって野球の試合をしていた王貞治さんを、たまたま通りかかった荒川選手が見つけます。

王選手が、左投げなのに右打席で打っているのを不思議に思った荒川さんは、左で打つようにアドバイスしたそうです。

また、荒川選手は、自分の母校である早稲田実業に進学するよう、王選手に勧めています。

この出会いがプロ野球の選手になることの転機となったと、後年、王貞治さんは回想しています。

 

オリオンズを退団した荒川選手は、川上監督からの打診を受け、1962年に巨人の一軍打撃コーチに就任します。

今度はコーチと選手として、二人は久しぶりに再会することになりました。

王選手の打撃練習を見た荒川コーチは、バッティングフォームの改造を決心します。

3年間夜遊びを禁止させ、王選手と荒川コーチは、二人三脚で猛烈な練習をこなすようになります

毎日、素振りをしたことによって、王選手が足を着いたところだけ畳がすり減ってしまったというエピソードは有名です。

また、あまりに真剣な練習を見たチームメイトが、「命がけの練習だ」とコメントするほどでした。

 

その甲斐あって、「一本足打法」を編み出した王選手は、1962年のシーズンでは38本の本塁打を打ち、長距離打者としての道を歩み始めたのです。

1964年にはシーズン55本ホームランを達成、そして1977年にはハンク・アーロン選手が持つメジャーリーグ本塁打記録755本を抜き去ります。

その後引退するまで、868本のホームラン世界記録を打ち立てました。

王貞治さんのホームラン世界記録達成は、もちろん自身の努力につぐ努力の成果です。

しかし、荒川コーチという恩人との出会いがあったからこそ、「世界の王」と呼ばれるまでの存在になれたとも言えます。

努力する人には運命も味方するというのは、本当なんですね!

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王貞治の背番号だった『1』について調査してみた。:まとめ

  • 王貞治選手の背番号『1』は、巨人の永久欠番として、永く称えられる番号となった。
  • 王貞治選手が入団してからの3年間は低迷し、背番号『1』に期待された活躍はできなかった。
  • 荒川博コーチとの出会いと、猛練習の結果、打者としての素質が花開きホームラン王への道を歩み始めた。

以上の内容でお送り致しました。

 

背番号『1』と王貞治さんは、切っても切れないものとなっています。

長嶋選手の『3』と同じくらい、これだけ世間一般に浸透した背番号は、他にはないのかもしれません。

スーパーヒーローとしてのプロ野球選手が、いかに影響力を持っているかが分かりますよね!

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