王貞治選手には、サインにまつわるエピソードがたくさんあります。

入団当初は、野球少年たちに気軽ににサインに応じています。

ホームラン世界記録を狙うころには、国民のだれもが王選手のサインを欲しがったでしょう。

サインの変遷から見える、王貞治選手の魅力あふれるエピソードをご紹介したいと思います。

 

この記事をお読み頂くことで、

・昨今のサインの形は、この人から始まった。

・王貞治さんのサインのエピソード

・真面目すぎて、ちょっとした弊害(?)も笑

 

等について知ることができます。

野球犬

ぜひ最後までお付き合い下さい!

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サインの在り方を変えた、王貞治の盟友

現在、プロ野球選手のサインというものの在りかたを変えたのは、「ON砲」の片翼を担う、長嶋茂雄選手でした。

それまでの日本のプロ野球のサインといえば、寄せ書き風のものが多かったのです。

監督のサインを色紙の真ん中に書き、チーム内の序列に従ってサインを書く位置や大きさなどがだいたい決まっていたため、一枚のサイン色紙を書き上げるのに2,3日かかるのもあったようです。

なんとなく、秩序を重んじる昭和の雰囲気が伝わってくるようですね。

 

しかし、これではファンからのサイン攻勢に、即座に対応できるものではありません

できるだけ多くのファンにサインを書いてあげたい。

そのようなファンサービスに応える方法を編み出したのが、長嶋選手でした。

長嶋選手のサインは、自分のサインだけを、崩した文字で大きくサラサラと書き上げています

メジャーリーグ風のサインの書き方に似ています。

これなら、サインをねだられた時に、すぐにファンに書いて渡せるので、とても効率がいいのです。

そして、この勢い溢れるサインは、株式市場の関係者には、「勢いがあって、株価が上がる」縁起物として大人気だったそうです。

それまでの前例や慣習を気にしない、ファンサービス大切にした長嶋選手だから生み出されたサインといえるでしょう。

以後、プロ野球選手のサインは、このような形に定着していきます。

サインの書き方ひとつとっても、長嶋選手の影響力の大きさが見えてくるようですね。

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王貞治の素敵な『サイン』のエピソード

王貞治選手のサインには、その誠実さ、律義さがにじみ出るようなエピソードが満載です。

 

王選手は高卒で巨人に入団し、多摩川沿いにある巨人の選手寮で生活していました。

夕方になると、夕焼けに染まっていく多摩川の土手が、窓から見えるようなのどかな日々でした。

そこへ、野球少年がやってきて王選手に窓越しにサインをねだるというようなこともありました。

快くサインをし、少年が嬉しそうに帰っていく背中に向けて、王選手は「宿題、忘れるなよ」と声をかけたということです。

 

また、1977年のシーズン、日本中は、王選手がハンク・アーロン選手のホームラン記録を抜いて、世界ホームラン記録を樹立するのを心待ちにしている時期でした。

試合中の移動の際、列車の故障で宿に付くのが深夜になってしまったことがありました。

しかし、王選手の部屋には、「サインをお願いします」と、500枚のサイン色紙が運び込まれました。

チームメイトの張本勲選手が、王選手の疲労を労わって、サインを書くのを断ってこようか?と言います。
しかし王選手は「これくらいのものが書くことができなければ、タイトルなんてとれないよ」と言い、黙々と500枚のサインをこなしたということです。

 

そして、王選手が756号のアーチを放つ前後。

世界記録達成でプロ野球を盛り上げ、その記念ボールを確保するために、連盟や球団は、さまざまな努力を行いました。

記念ボールを手に入れた人には、グァム旅行や温泉旅行など、当時の金額で38万円を進呈するキャンペーンを行っています。

その甲斐あって、記念ボールを手に入れた埼玉県の会社員から無事に寄贈をうけ、記念ボールは野球殿堂博物館に収蔵されることになりました。

東京ドームにある博物館には、数々の名選手・名チームの記念となる品々のなかに、「756号」とサインが入った記念ボールが展示されています。

そっけないくらいのこのボールが、歴史を変えた一品だと思うと、とても感慨深いものがありますね。

 

王選手のサインについての数々エピソードには、律儀や優しさ、それにプロフェッショナルを貫く姿勢や、当時の雰囲気までもが伝わってくるようですね。

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