長嶋茂雄さんとえいば、もちろん「背番号3」ですよね。

監督時代には、背番号90、背番号33をつけていたのですが、日本人はだれもが背番号3イコール長嶋茂雄選手を想像します。

しかし、それぞれの背番号をつけていた時期にも、ドラマチックなエピソードが数多くあります。

今回は、そんなエピソードを紹介していきたいと思います。

 

この記事をお読み頂くことで、

・伝説の背番号3が復活したときのエピソード

・違和感あり?長嶋茂雄「背番号90」の頃…

・背番号33のを背負った時、愛弟子との出会いが!

 

等について知ることができます。

野球犬

ぜひ最後までお付き合い下さい!

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長嶋茂雄の「背番号3」復活に沸いた観衆!

背番号1といえば王貞治選手、そして背番号3といえば、誰もが長嶋茂雄選手の名前を挙げるでしょう。

背番号「3」は、それだけ特別な存在なのです。

国民的スーパースターとして、巨人V9の黄金時代を築いた背番号3、長嶋茂雄選手。

そのガッツあふれるプレーの数々は、当時を知る世代のみならず、現代のプロ野球ファンでも魅了されます。

現役引退後、背番号3は巨人の永久欠番になります。

長嶋茂雄さんは、その後2度、巨人の監督を務めていますが、背番号3をつけることはありませんでした。

 

しかし、その永久欠番、背番号3をつけてファンの前に現れる長嶋茂雄さんの姿が見られることがありました!

2000年の宮崎でのキャンプのとき、前年までつけていた背番号33を江藤選手に譲った長嶋監督は、伝説の背番号3のユニフォームを着てグラウンドに現れました

グラウンドコートを脱ぎ、背番号3のユニフォームがファンやマスコミの目に触れると、大喝采が起こります。

それほど、プロ野球ファンはミスターの背番号3を見ることを熱望していたのです。

プロ野球の監督が、昔の背番号をつけたユニフォームを着て、ただグランドに現れただけの話なのです。

しかしそれがNHKのニュース速報になり、メディアの多くのカメラがその姿を追いかけるなど、一大フィーバーになってしまうところが、ミスタープロ野球の存在感のすごさなのでしょう。

 

スーパースターの影響力は、現在にあっても健在なのですね。

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長嶋茂雄が「背番号90」だった頃は山あり谷あり

背番号90をつけた長嶋茂雄さん。その姿は、1974年に現役を引退し、川上監督勇退の後を受け巨人の監督となった長嶋監督でした。

前年、リーグ2位で終わった雪辱をはらすため、長嶋監督はひとつの方針を掲げます。

川上監督のプレースタイルを一掃し、野球の基本である、投・攻・守の力で正々堂々と勝利する「クリーン・ベースボール」です。

そのため、コーチ陣を一新し、チームの力をボトムアップするような正攻法でリーグ戦に挑みました。

 

しかし、その結果、巨人のチーム史上初のリーグ最下位となり、1975年のシーズンが終わりました。

原因は、長嶋監督がどのようなプレーしたいのか、選手があまり理解できていなかったこと。

V9時代の体制を急激に変更したため、現場もフロントも混乱したためと言われています。

 

1975のオフには、その歪みを修正するべく「勝てる野球」にシフトしていきました。

張本選手、加藤投手を補強し、内野手のコンバート、コーチの変更など、いろいろな意見を取り入れました。

その成果ものあり、1976年にはリーグ優勝を果たします。

 

以後、第一次長嶋巨人の成績は、リーグ優勝、2位、5位、という、山あり谷ありという言葉通りの成績を残しました

最終的には、成績不振の責任を取る形で長嶋監督は巨人を辞任します。

リーグ優勝を2回果たしているのだから、長嶋監督は名将であったと言えます。

しかし、伝統ある巨人軍を最下位に導いてしまった責任もあったでしょう。

巨人はやはりプロ野球にあっては「特別」な存在であるべきなのかもしれません。

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