今回は、松井秀喜さんが残した数々の伝説についてお伝え致します。

彼の残した伝説を振り返ってみると、『平成を代表するスーパースタだったなぁ』と感じていただける筈。

高校時代、NPB時代、そしてメジャー移籍後と3部に分けて【松井秀喜伝説】をお送りします!

野球犬

ぜひ最後までお付き合い下さい!

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松井秀喜伝説~高校時代編~

「松井秀喜の伝説」

この言葉に違和感を感じる人はいません。

松井秀喜さんは伝説を生きています。

 

松井秀喜さんは子供のころから、いえ、生まれたときから規格外のエピソードを数多く持っています。

そのエピソードが伝説へと姿を変え始めたのは、やはりゴジラと呼ばれるようになった高校時代からでしょう。

 

松井秀喜選手は名門星稜高校で一年生のときから4番を任されていました。

すぐに「北陸の怪童」「星稜恐怖の一年生4番」などと言われて恐れられる存在になりました。

 

松井秀喜選手は高校3年生の春の選抜大会の前からマスコミによってゴジラのニックネームで呼ばれるようになりました。

それ以前から怪物などと呼ばれていたのであまり変わっていないのですが、一般名詞から固有名詞になったことでキャラクター性が付いてその迫力をさらに増していきます。

甲子園ラッキーゾーン撤去後第一号ホームラン

高校3年生の春の選抜大会は甲子園のラッキーゾーンが撤去されてから最初の大会でした。

ゴジラが壊したのでしょうか。

松井秀喜選手はホームランが注目される選手でしたから、ラッキーゾーンが撤去されたことはマスコミも気になるところでした。

そして大会前に松井選手にインタビューしましたが、

「僕には関係ありません」

と、さらっと受け流されてしまいました。

ゴジラの身長は初代で50メートルですから、そりゃあ十数メートルくらい関係ないでしょう。

 

その言葉通り松井秀喜選手はいとも簡単に1試合2ホームランという離れ業をやってのけました。

大会の第1試合だったので、それがラッキーゾーン撤去後の第1号になりました。

しかしこれは松井秀喜伝説のほんの前菜に過ぎません。

明徳義塾高校戦の5打席連続敬遠

この「事件」は甲子園を語る上でも松井秀喜さんを語る上でも外せません。

 

松井秀喜さんの名前を知っている人なら、野球は知らなくてもこの5打席連続敬遠を知らない人はいません。

当時は日本人なら全員知っていたんですけどね。

さすがに25年以上経ってますから若い人は知らないかもしれません。

それでも今なおこの伝説が色あせることはありません。

 

松井秀喜さんの伝説はここから始まりましたが、正確にはこの事件が松井秀喜選手を伝説にしてしまったと言えます。

 

当時明徳義塾高校の馬淵監督は松井秀喜選手を見てどうやったら勝てるか真剣に考えました。

そして出した結論は全打席敬遠です。

いや、実際には5点差くらいあったら勝負していたと思います。

しかし松井秀喜選手の打席は全てホームランで同点か逆転というぎりぎりの状況でした。

松井選手といえばホームランですから、打たれるわけにはいきません。

野村克也さんの言葉を借りれば弱者の兵法です。

 

「勝つことよりももっと大事なことがある」

そう言って采配を非難する人も大勢います。

しかし野球規則に明記されている目的はただ一つ「勝利を目指す」ことです。

少なくとも甲子園大会ではこれが唯一で最大の目的です。

結果として勝つことよりも大事なことを学ぶことはありますが、最大の目的を放棄して言うことではありません。

何より勝者を貶めることは敗者を貶めることになります。

明徳義塾高校の作戦を批判する理由はどこにもありません。

 

しかし実際には大バッシングを受けました。

関係者のその後の人生に大きく影響することになりました。

 

誰よりも松井秀喜選手本人に大きな影響を与えました。

何しろ一度もバットを振らずに最強のバッターだと決めつけられてしまったのですから。

いや、実際最強のバッターなんですけど。

ゴジラですし。

松井秀喜選手本人は悔しい思いもあったでしょうが、それを表に出すこともなく、むしろこの事件を教訓に自分は前代未聞の5打席連続敬遠をされた選手なのだから、それを証明しなくてはいけない、そう自分に言い聞かせて恐ろしい成長をしていくことになります。

1954年の初代では50メートルだった身長も、2016年の「シン・ゴジラ」では118.5メートルまで成長しました。

 

この事件は松井秀喜選手の伝説の始まりというよりは、松井秀喜選手の伝説のスイッチだったと言えます。

 

そして伝説の道を歩き始めた松井秀喜選手の前に、伝説の野球人「ミスタープロ野球」が現れます。

伝説が伝説に引き寄せられた瞬間です。

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松井秀喜伝説~NPB 時代編~

高校生最後の夏を伝説の事件で幕を下した松井秀喜選手はその秋、ミスタープロ野球と出会うことになります。

 

子供のころから「ミスタータイガース」掛布雅之さんに憧れていた松井秀喜少年でしたが、「ミスタープロ野球」長嶋茂雄さんの熱い情熱に引き寄せられてジャイアンツに入団することになります。

 

父昌雄さんも星稜高校の山下監督もそうですが、松井秀喜選手は指導者に恵まれる星の強さを持っていると思います。

 

長嶋茂雄監督はさまざまなアレな面白いエピソードを持っていますが、野球に対する熱さでは非常に有名です。

長嶋監督は野球に対して一切妥協することがない人ですが、後年松井選手についてこう語っています。

「成功した後も努力し続けたのは松井君だけです」

松井秀喜選手は子供のころに父から

「努力できることが才能である」

という言葉を送られ、それを胸に努力を続けてきました。

そして松井選手は紛れもない努力の天才です。

長嶋監督の情熱と松井選手の努力の才能が融合した結果、ジャイアンツの松井秀喜選手が出来上がったわけです。

高卒1年目で11本塁打

高卒1年目のルーキーとしてはセ・リーグ新記録となる11本塁打を放ちました。

これは本当にすごい記録です。

 

ただしこちらのサイトによればパ・リーグにはこれ以上打っている人が5人もいます。

31本の清原和博さんに始まり、豊田泰光さん、榎本喜八さん、張本勲さん、中西太さんです。

どうです、いろんな意味で化け物しかいないでしょう。

ここは笑っていいところですよ。

2桁本塁打は今のところこの6人だけですから、ここに名前が並んでいるだけで歴史に名を刻んでいると言えます。

オールスターゲームで史上最年少4番打者

1994年のオールスターゲームに初出場した松井選手は20歳1か月で史上最年少の4番打者を務めました。

他に横浜ブラッグス選手、阪神オマリー選手、中日大豊選手、ヤクルト池山選手などがいましたから誰が4番を任されても良かったでしょうが、この時のセ・リーグ野村克也監督は松井秀喜選手を抜擢しました。

当時チームでも4番を打ったことはありませんでしたが、将来の日本の4番を打つ選手だと考えたのでしょう。

その慧眼には感服するばかりです。

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22歳でのシーズン本塁打記録38本

野球はデータで楽しむスポーツですから、いろいろなデータが出てきます。

その中で年齢別のシーズン本塁打記録というものがあります。

松井選手は22歳時点でのシーズン本塁打記録38本というものを持っています。

この記録はジャイアンツの大先輩、王貞治さんに並ぶタイ記録となっています。

3年連続全試合4番打者フル出場

もう一つ松井秀喜選手のすごい記録があります。

NPBでの最後2000年~2002年までの3年間、ジャイアンツの4番として全試合にフル出場しています。

これはさすがに歴代でも他にいません。

絶対的な4番打者であり、かつ丈夫な身体を持った松井秀喜選手だからこそ成し得た記録だと思います。

しかもこの3年間、2冠王、首位打者、2冠王を獲得しています。

 

2002年について言えば他に清原和博選手、江藤智選手、高橋由伸選手、阿部慎之助選手と誰が4番を打ってもおかしくないメンバーでした。

この中でも絶対的4番打者として1年間フル出場したのです。

この他に清水隆行選手、仁志敏久選手、元木大介選手、二岡智宏選手が脇を固めているんですから松井秀喜選手が抜けてもふざけた打線です。

どこかの小学生の「ボクが考えた最強のチーム」です。

そりゃあ古田敦也捕手が「早くメジャー行け!」と願うのも無理はありません。

 

今の時代は休ませるのが当たり前になってきたこともあり、この先二度と現れないかもしれません。

 

この頃の私は本気で通算1000本塁打いける!と思っていました。

 

しかしもはやNPBは伝説の怪物にとっては刺激のない安住の地となってしまっていました。

ゴジラは戦いを求めて海を渡る決心をしました。

ギャース!

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松井秀喜伝説~メジャーリーグ編~

海を渡ったゴジラは日本のホームランバッターがメジャーで暴れるという日本人ファンの期待を一身に背負っていました。

本拠地満塁本塁打デビューでヤンキースファンの心を掴む

2003年4月8日ヤンキースタジアムでのデビュー戦となる開幕戦で満塁ホームランを放ち、ヤンキースファンの心をグッと掴みました。

 

日本のホームランバッターがメジャーのホームランバッターになる、誰もがそう確信した瞬間でした。

 

その後はメジャーの動く球やストライクゾーンの違いに戸惑い、数字を落とした時期もありましたが、ここでも指導者に恵まれていた松井秀喜選手はトーリ監督に篤く信頼され、その助言を受け入れることで調子を取り戻しました。

ホームランより打点を稼ぐプレースタイルに変えてチームの勝利に貢献し、終わってみればヤンキースの新人選手としては67年ぶり3人目のシーズン100打点を稼ぎ、またヤンキースの新人選手としては21世紀初のシーズン163試合出場を達成しました。

 

ホームランこそ減って日本のファンの当初の期待には応えられなくなっていきましたが、それに反して松井秀喜選手のとにかくチームの勝利の為にホームランを減らしてでもベストを尽くすという野球に対する姿勢は監督やチームメイトにすぐに受け入れられ、ヤンキースになくてはならない選手として認められました

とりわけ同じくチームの勝利の為にベストを尽くすジーター選手とはすぐに打ち解けて無二の親友となり、その友好関係は引退した今日でも続いています。

 

メジャー2年目には31本塁打を放ってまた日本のファンのホームランバッターへの夢を呼び覚ましましたが、やはりタレント揃いのメジャーで結果を残すために自分の役割は打点を稼ぐことと考え直して中距離&クラッチヒッターへと切り替えて、その真摯なプレーにファンもそれを認めるようになりました。

 

結局ヤンキースでの7年間、ケガで離脱した時期はありますが、強豪チームでずっと中軸を任され続けたのは物凄い事で、この先なかなか現れないのではないかと思います。

ついに夢のワールドチャンピオン

ヤンキースに入団して7年目、それまで惜しくもワールドチャンピオンになれなかった松井秀喜選手ですが、遂にその時が訪れます。

 

膝のケガが悪化し、守ることができずに1年間DHとしてひたすらバットで勝利に貢献してきました。

順調に駒を進めてついにたどり着いた頂上決戦です。

このシリーズの松井秀喜選手は調子がよく、かつて苦手としていたペドロ・マルチネス投手からもホームランを打っていました。

しかし敵地に場所を移すとDHがないため、ピンチヒッターで少しずつ勝利に貢献します。

それでも3勝2敗としてリーチをかけて戻ってきたヤンキースタジアムでの第6戦はDHありなので松井秀喜選手も再びスタメンに名を連ねました。

この試合、松井秀喜選手のバットはまさにゴジラのように火を噴きました。

2試合目にホームランを打っているマルチネス投手から、またも先制の2ランホームランを放つと、その勢いのままその後も2度の2点タイムリーを放ち、シリーズタイ記録となる6打点の活躍で勝利に貢献、見事ワールドチャンピオンに輝きました

満塁本塁打デビューでヤンキースファンの心を掴んでから7年、この瞬間ついにヤンキースファンを歓喜の絶頂に導いたのです。

 

このシリーズではホームラン3本、8打点の活躍で見事ワールドシリーズMVPに選ばれました

もちろん日本人初です。

松井秀喜伝説のクライマックスです。

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松井秀喜の伝説的なエピソード…まさにゴジラ級:まとめ

身体の強さもさることながらその性格が松井秀喜さんという人間を強烈なキャラクターにしています。

そして指導者に恵まれていたり、常に名門チームに所属して勝つことを義務付けられたりと強い星のもとに生まれていると言えます。

 

松井秀喜選手の現役時代の伝説は5打席連続敬遠に始まり、ワールドシリーズMVPで頂点を迎えたと言っていいでしょう。

 

しかし松井秀喜さんの人生はまだまだ続いています。

現役を引退した今、次はどんな伝説を紡いでくれるのか、楽しみにしたいと思います。

 

野球犬

最後までお読み頂き、有難うございました!

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